記憶喪失きおくそうしつ（amnesia)

　妻つまは全すべてを忘わすれてしまった。

　妻つまは、自殺じさつしたが、助たすかった。

　しかし、その時とき、頭あたまを強つよく打うった。

　そのせいで、記憶きおくがなくなってしまった。

　僕ぼくは、思おもった。

　それは、彼女かのじょにとって、良よいことかもしれない……

　なぜなら、彼女かのじょの過去かこは、決けっして、幸しあわせなものではなかったから。

　彼女かのじょは、三年前さんねんまえに子供こどもを産うんだ。

　しかし、その子こは、まもなく、病気びょうきで死しんでしまった。

　彼女かのじょは、去年きょねん、また、子供こどもを産うんだ。

　ところが、その子こも、まもなく、病気びょうきで死しんでしまった。

　彼女かのじょは、そのことで、苦くるしんでいた。

　そして、ついに、自殺じさつしたのだ。

　しかし、彼女かのじょは助たすかった。

　そして、彼女かのじょは、それまでの苦くるしかったことを、すべて忘わすれてしまった。

　僕ぼくは思おもった。

　これは、もしかすると、彼女かのじょにとって良よいことかもしれない……

　苦くるしい過去かこを忘わすれることができたのだから……。

　だから、僕ぼくは、彼女かのじょに何なにも教おしえなかった。

　記憶きおくを失うしなった彼女かのじょに、彼女かのじょの過去かこについて、何なにも教おしえなかった。

　家いえの中なかのものも、過去かこに関係かんけいするものは全すべて捨すててしまった。

　写真しゃしんも、全すべて捨すててしまった。

　彼女かのじょは、何度なんども僕ぼくに尋たずねた。

　……私わたしは、今いままで、どんな生活せいかつをしていたの？

　……私わたしは、今いままで、何なにをしていたの？

　僕ぼくは、何なにも答こたえなかった。

　彼女かのじょは不満ふまんそうだった。

　それでも、二人ふたりの生活せいかつは明あかるかった。

　以前いぜんとは違ちがっていた。

　彼女かのじょは、元気げんきになった。

　ところが、彼女かのじょは見みつけてしまったのだ。

　一冊いっさつのノートの中なかに写真しゃしんが入はいっていたのだ。

　それは、去年きょねん死しんだ赤あかん坊ぼうの写真しゃしんだった。

　彼女かのじょは、それを見みてしまった。

　僕ぼくは嘘うそをついた。

　それは、他人たにんの赤あかん坊ぼうだと、言いった。

　僕ぼくたちには関係かんけいのない写真しゃしんだと、言いった。

　しかし、だめだった。

　彼女かのじょは、もう、思おもい出だしてしまった。

　その写真しゃしんを見みただけで、全すべてを思おもい出だしてしまった。

　彼女かのじょは、苦くるしい過去かこを思おもい出だしてしまった。

　彼女かのじょは、しばらく、泣ないていた。

　そして、彼女かのじょは言いった。

　……きっと、私わたしが悪わるいの……

　……あの子こたちが死しんだのは、私わたしが悪わるいの……

　……だから、私わたしなんかが、生いきていてはいけないの……

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