セロ弾きのゴーシュ(セロひきのゴーシュ) Gauche the Cellist
宮沢賢治(みやざわ けんじ) Kenji Miyazawa
(1)
Gauche is a diligent but mediocre cellist who plays for a small-town orchestra, The Venus Orchestra, and the local cinema in the early 20th century. He struggles during rehearsals and is often berated by his conductor during preparations for an upcoming performance of Beethoven's Sixth Symphony (the Pastoral Symphony).
ゴーシュは町の映画館の楽団で、チェロを弾いていました。
(セロ=チェロ:cello) (楽団:an orchestra; a band) けれども、あまり上手ではありません。
実は、その楽団のメンバーのなかでは、一番下手でした。
だから、いつでも指揮者に、いじめられるのでした。
(指揮者:a conductor) (いじめる:to bully)
昼すぎ、みんなは、部屋で、まるく並んで、練習をしていました。
それは、今度の町の音楽会で演奏する、交響曲第六番の練習でした。
(音楽会:a concert, a recital) (交響曲:a symphony) 突然、指揮者が両手を鳴らしました。
みんな、ぴたりと曲をやめて静かになりました。
指揮者が怒鳴りました。
「チェロがおくれた。
トォテテ テテテイ、ここから、やり直し。はいっ」
みんなは、今のところの少し前のところから、弾き始めました。
ゴーシュも、顔をまっ赤にして弾いています。
やっと、いま言われたところを通りすぎました。
ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと、指揮者が、また、手をぱっと叩きました。
「チェロっ。
チューニングがおかしい。
(チューニング:tuning) 困るなあ。
ぼくは、きみに、ドレミファを教えているひまは、ないんだがなあ」
(ドレミファ:the musical scale) ゴーシュは、あわてて、弦を合わせました。
(弦:a string) これは、じつは、ゴーシュも悪いのですが、チェロもずいぶん悪いのでした。
「今の前のところから。はいっ」
みんなは、また、はじめました。
ゴーシュも、一生懸命です。
そして、こんどは、かなり進みました。
いい調子だと思っていると、指揮者が、また、ぱたっと手を叩きました。
またかとゴーシュは、どきっとしましたが、ありがたいことに、こんどは、別の人でした。
(どきっと する:to be startled)
「では、すぐ今の次。はいっ」
それ!と、思って弾き出したかと思うと、いきなり、指揮者が足で床をどんと踏んで、どなり出しました。
「だめだ。
このへんは、曲の心臓なんだ。
それが、こんなに、騒がしくて……。
(騒がしい:noisy) みなさん。
演奏会まで、もうあと十日しかないんだよ。
音楽を専門にやっているぼくらが、あんな趣味でやっているような町の人たちに負けてしまったら、一体どうするんだ。
おいゴーシュ君。
君には、困ってしまう。
君の演奏には、表情がない。
怒るとか、喜ぶとか、そういう感情が、全く、ないんだ。
それに、どうしても、他の楽器と、合わない。
いつでも、君だけ少し遅れて、みんなのあとを歩いているようなんだ。
困るよ、しっかりしてくれ。
では、今日の練習はここまで。
休んで、六時には、遅れずにボックスへ入ってくれ」
(ボックス:楽団が演奏する場所)
みんなは、たばこを吸ったり、どこかへ、出て行ったりしました。
ゴーシュは、チェロをかかえたまま、壁の方へ向いて、ぼろぼろ涙を流していました。
が、しばらくして気持ちが落ち着くと、彼一人だけ、今やったところを、はじめから、しずかに、もう一度、弾きはじめました。
(2)
Over the course of four nights, Gauche is visited at his mill house home by talking animals as he is practicing. The first night, a tortoiseshell cat came to Gauche and, giving him a tomato, asked him to play Schumann's "Traumerei". Gauche was irritated, as the tomato was from his garden outside, so he berated the cat and instead played "Tiger Hunt in India". This startled the cat and made it leap up and down in astonishment. The cat ran away in fright.
その晩遅く、ゴーシュは、自分の家へ帰ってきました。
家といっても、それは、町はずれの、川のそばにある、こわれた水車小屋でした。
(町はずれ:outskirts) (水車小屋:a water mill) ゴーシュは、そこに、たった一人で住んでいました。
午前中は、小屋のまわりの小さな畑で、トマトの枝をきったり、キャベツの虫をとったりして、昼過ぎになると、いつも出て行くのです。
ゴーシュは、あかりをつけると、チェロをケースから取り出し、床の上に置きました。
それから、いきなり、棚からコップをとって、バケツの水をごくごく飲みました。
(ごくごく飲む:to gulp) ゴーシュは、椅子に座ると、まるで虎みたいな勢いで、昼に練習した曲を弾きはじめました。
(虎:tiger) 楽譜をめくりながら、弾いては考え、考えては弾き、一生懸命練習しました。
(楽譜:sheet music) (めくる:to turn over the pages) 最後まで行くと、また、はじめから、何度も何度も、ごうごうごうごう、弾きつづけました。
夜中になっても、ゴーシュは弾き続けました。
もう、ゴーシュは顔が真っ赤になって、いまにも、倒れそうでした。
そのとき、誰かが戸をとんとんと叩きました。
そして、すうっと戸を押して、入って来たのは、いままで、五六回見たことのある、大きな三毛猫でした。
(三毛猫:a tortoiseshell cat)
ゴーシュの畑からとったトマトをとても重そうに持って来て、ゴーシュの前におろして、言いました。
「ああ疲れた。
トマトを運ぶのも大変だ」
「何だと」ゴーシュが言いました。
「これ、おみやげです。食べてください」三毛猫が、言いました。
ゴーシュは、急に大声で怒鳴りました。
「誰が、お前にトマトなど持ってこいと言った。
第一、おれが、お前のもってきたものなど、食うか。
それから、そのトマトだって、おれの畑のやつだ。
何だ。まだ赤くなってないやつをとってきて。
出て行け。猫め」
すると猫は、少し困ったという表情をしました。
それでも、口のあたりで、にやにや笑いながら、言いました。
「先生、そんなに怒ると、体に悪いですよ。
それよりシューマンのトロメライを弾いてみてください。
聞いてあげますから」
(シューマン:Schumann) (トロメライ:猫がトロイメライ(Traumerei)を間違えて言っている)
「生意気なことを言うな。
猫のくせに」
(生意気な:cheeky) 「いや、遠慮は要りません。
どうぞ。
わたしは、どうも先生の音楽をきかないと、眠れないんです」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ」
ゴーシュは、まっ赤になって、昼間に指揮者がしたように、足で床を踏みつけて、どなりました。
が、急に、落ち着いて静かに言いました。
「では、弾くよ」
ゴーシュは、何を思ったのか、戸にかぎをかけて、窓もみんな閉めてしまいました。
それからチェロをとりだして、明かりを消しました。
すると、外から、月のひかりが、部屋のなかへ、半分ほど、はいってきました。
「何を弾けと?」
「トロメライ、シューマン作曲」
「そうか。トロメライというのは、こういう曲か」
ゴーシュは、何を思ったのか、まず、ハンカチを自分の耳の穴へ、ぎっしり、つめました。
それから、まるで嵐のような勢いで「インドの虎狩り(Tiger Hunt in India)」という曲を弾きはじめました。
(狩り:hunting)
すると、猫は、何か変だな、というような顔をして、しばらく聞いていました。
が、いきなり、パチパチパチッと、まばたきしたかと思うと、ぱっと飛び上がって、戸の方へ走り出しました。
(まばたき:blink) そして、いきなり、どんと戸へ、ぶつかりました。
が、戸は開きませんでした。
猫の目や、額から、ぱちぱち火花を出ました。
(火花:a spark) ひげからも、鼻からも、火花が出ました。
ゴーシュはすっかり面白くなって、ますます勢いよく弾きます。
(ますます:more and more)
「先生、もう、たくさんです。たくさんですよ。
お願いですから、やめてください」
「だまれ。
これから虎をつかまえるところだ」
猫は、飛び上がったり、回ったり、壁に、体を押し付けたりしました。
しまいには、猫は、まるで風車のように、ぐるぐるぐるぐる、ゴーシュのまわりをまわりました。
(風車:a windmill) ゴーシュも、すこし、目が回って来ましたので、
「さあ、これで許してやるぞ」
と、言いながら、やっと、やめました。
(目が回る:to feel dizzy)
すると猫も、平気な顔をして
「先生、今夜の演奏は、どうかしていますね」
と言いました。
(平気な:calm, self-possessed) ゴーシュは、また、腹が立ったのですが、まるで、何も気にしていない、というような表情で、タバコを一本だして、くわえました。
それから、マッチを一本、手に持つと、言いました。
「どうだい。
体の調子は悪くないか?
さあ、舌を出してごらん」
猫は、長い舌をベロリと出しました。
「ははあ、少し荒れてるね」
(荒れている:rough) ゴーシュは、そう言いながら、いきなり、マッチを舌でシュッとすって、自分のタバコへ、火をつけました。
(マッチをする:to strike a match) 猫は驚いて、舌を、くるくる、まわしながら、入り口の戸のところへ走って行きました。
頭で、どんと、ぶつかっては、よろよろと、また戻って来ました。
(よろよろ する:to stagger) そして、また、戸のところへ走って行って、どんと、ぶつかっては、よろよろと、また、戻って来ました。
猫は、何度も何度も、何とかして、逃げようとしました。
ゴーシュは、しばらく面白そうに見ていましたが
「出してやるよ。もう来るなよ。ばか」
と、言うと、戸をあけて、猫を逃がしてやりました。
そして、猫が風のように走って行くのを見て、ゴーシュは、ちょっと笑いました。
それから、横になると、ぐっすり眠りました。
(3)
The second night as he was practicing, a cuckoo came to him asking to practice scales to Gauche's cello accompaniment. Gauche repeatedly played "cuckoo, cuckoo", accompanied by the bird. Eventually, he felt that the cuckoo's song was better than his cello. Gauche chased the bird away, causing it to fly into his window, hitting its head.
次の晩も、家に帰って来ると、水をごくごく飲んで、また、前の晩と同じように、チェロを弾きはじめました。
十二時が過ぎて、一時もすぎ、二時もすぎても、ゴーシュは、まだ、やめませんでした。
それから、もう何時なのかも、わからず、弾いていました。
すると、誰かが、天井をこつこつと叩いています。
「猫、また来たのか」
ゴーシュが、叫びました。
すると、いきなり、天井から、一羽の鳥が下りて来ました。
それは、かっこうでした。
(かっこう:a cuckoo)
「鳥まで来るなんて。何の用だ」ゴーシュが言いました。
「音楽を教えてほしいのです」かっこうは、言いました。
ゴーシュは、笑って
「音楽だと。
おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃないか」
すると、かっこうが、とても真面目に
「ええ、そうなんです。
けれども、それが、難しいんです」
と言いました。
「むずかしいもんか。
おまえたちのは、ただ、たくさん鳴くだけじゃないか。
鳴き方なんか、みんな同じじゃないか」
「そんなことは、ありません。
たとえば、かっこうと、こう鳴くのと、かっこうと、こう鳴くのとでは、聞いていても、全然違うでしょう」
「違わないね」
「では、あなたには、わからないんです。
わたしたちの仲間なら、かっこうと一万回鳴けば、一万回、みんな違うんです」
「俺には、わからん。
そんなに、わかってるなら、何も、おれのところへ来なくてもいいじゃないか」
「ところが、私は、ドレミファを正確に知りたいんです」
「ドレミファなんて、お前たちには、関係ないだろう」
「いいえ、
外国へ行く前に、ぜひ、知りたいんです」
「そんなこと、俺には関係ない」
「先生、どうか、ドレミファを教えてください。
わたしは、一緒にうたいますから」
「うるさいなあ。
じゃあ、三回だけ弾いてやるから、すんだら、さっさと帰るんだぞ」
ゴーシュはチェロを取り上げて、ドレミファソラシドと、弾きました。
すると、かっこうは、あわてて、羽を、ばたばた、させました。
(ばたばた:to flap) 「ちがいます、ちがいます。
そんなんじゃないんです」
「うるさいなあ。
では、おまえ、やってごらん」
「こうですよ」
かっこうは、体を前に曲げたまま、しばらく、じっとしていました。
(じっとする:動かない) それから、「かっこう」と、一回なきました。
「何だい。それがドレミファか?
それじゃ、おまえたちには、ドレミファも交響曲第六番も同じなんだな」
「それは違います」
「どう違うんだ」
「むずかしいのは、これをたくさん続けることなんです」
「つまり、こうだろう」
ゴーシュは、またチェロをとって、かっこう、かっこう、かっこう、かっこう、かっこうと、つづけて弾きました。
すると、かっこうは、大変よろこんで、途中から、かっこう、かっこう、かっこう、かっこうと、一緒に叫びました。
それも、もう一生懸命、体を曲げて、いつまでも叫ぶのです。
ゴーシュは、とうとう手が痛くなって
「こら、いい加減にしないか」
と言いながら、止めました。
(いい加減にしろ:That's enough.)
すると、かっこうは残念そうな顔をして、まだ、しばらく、鳴いていましたが、やっと
「……かっこう、かくう、かっかっかっかっか」
と言ってやめました。
ゴーシュは、すっかり怒ってしまって、
「こら、鳥、
用が済んだら帰れ」
と言いました。
「どうか、もう一度、弾いてください。
あなたのは、正しいようだけれども、少し違うんです」
「何だと。
おれが、お前に教えてもらっているわけじゃないぞ。
帰れ」
「どうか、もう一度だけ、お願いします。どうか」
かっこうは、頭を何度も、下げました。
「では、これが最後だよ」
ゴーシュは言いました。
かっこうは、
「では、なるべく、長くお願いします」
と言って、また、一つ、おじぎをしました。
(おじぎをする:to bow)
「困るなあ……」
と、ゴーシュは、にが笑いしながら、弾きはじめました。
(にが笑いする:to smile bitterly)
すると、かっこうは、また一生懸命、
「かっこう、かっこう、かっこう」
と、体を曲げて叫びました。
ゴーシュは、初め、腹が立っていましたが、続けて弾いているうちに、ふと、何だか、これは、鳥の方が正しいドレミファかもしれない、という気がしてきました。
弾けば弾くほど、かっこうの方が正しいような気がするのでした。
「えい!
こんな馬鹿なことをしていたら、おれは鳥になってしまう」
と、ゴーシュは、いきなりチェロをやめました。
すると、かっこうは、また、さっきのように
「かっこう、かっこう、かっこう、かっかっかっかっかっ」
と言ってやめました。
それから、ゴーシュを見ると
「なぜ、やめたんですか。
僕たちなら、どんなやつでも、のどから血が出るまでは叫ぶんですよ」
と言いました。
「こんな馬鹿なことをいつまでも、していられるか。
もう出て行け。
見ろ。夜があけそうじゃないか」
ゴーシュは、窓を指さしました。
東のそらが、ぼうっと銀色になっています。
「では、太陽が出るまで。
どうか、もう一度。ちょっとですから」
かっこうは、また、頭を下げました。
「黙れっ。
いい加減にしろ。
出て行かんのなら、焼いて朝飯に食ってしまうぞ」
ゴーシュは、怒鳴りました。
すると、かっこうは、びっくりしたように、いきなり、窓に向かって飛び立ちました。
そして、ガラスに、はげしく、ぶつかると、ばたっと下へ落ちました。
「何だ、ガラスへ……
馬鹿だなあ」
ゴーシュは、あわてて立って、窓をあけようとしましたが、簡単には開きません。
ゴーシュが、窓を開けようとしていると、また、かっこうが、飛び立って、ガラスにぶつかって下へ落ちました。
見ると、くちばしから少し血が出ています。
(くちばし:a bill; a beak)
「今、開けてやるから待っていろ」
ゴーシュが、やっと少しだけ窓をあけたとき、かっこうは、また起きあがりました。
そして、じっと窓の向こうの東の空をみつめています。
かっこうは、勢いよく、ぱっと飛びたちました。
今度は、前よりひどくガラスに当たりました。
かっこうは、下へ落ちたまま、しばらく動きません。
それでも、また、起き上がって、ガラスへ向かって、飛ぼうとするのです。
ゴーシュは、思わず、足を上げて、窓をけりました。
ガラスは、二三枚、大きな音をたてて割れて外へ落ちました。
そのガラスも何もなくなったところを、かっこうが、外へ飛びだしました。
そして、もう、どこまでも、どこまでも、まっすぐに飛んで行って、とうとう見えなくなってしまいました。
ゴーシュは、しばらく、外を見ていました。
が、そのまま倒れるように横になると、ぐっすり眠ってしまいました。
(4)
The third night as he was practicing, a Japanese raccoon dog came to him asking to practice the timpani to Gauche's cello accompaniment. As Gauche played "The Merry Master of a Coach Station", the tanuki hit the cello with a drum stick. The tanuki pointed out to Gauche that he played slowly despite trying to play speedily. The two left on good terms as the day broke.
次の晩も、ゴーシュは夜中すぎまで、チェロを弾いて、つかれて、水を一杯飲んでいました。
すると、また、何かが、戸をこつこつ叩きます。
今夜は、何が来ても、昨夜のように大声で怒鳴って、追い払ってやろう、と思いました。
(追い払う:to drive away) すると、戸がすこし開いて、一匹のたぬきの子が、はいってきました。
(たぬき:a raccoon dog)
ゴーシュは、いきなり怒鳴りました。
「こら、たぬき、
おまえは、たぬき汁というものを知っているか?」
(~汁:soup)
すると、たぬきの子は床へ座ったまま、どうも、わからない、というような顔をしていました。
が、しばらくたって
「たぬき汁って、ぼく、知らない」
と言いました。
ゴーシュは、その顔を見て、思わず、笑いそうになりましたが、まだ我慢して、言いました。
「では教えてやろう。
たぬき汁というのは、おまえのような、たぬきを、キャベツや塩とまぜて、じっくりと煮て作るんだ。
そして、それを俺が食うんだ」
すると、たぬきの子は、また、ふしぎそうに言いました。
「だって、ぼくのお父さんがね、『ゴーシュさんは、とてもいい人で、こわくないから、行って習え』と言ったよ」
そこで、ゴーシュも、とうとう笑い出してしまいました。
「何を習えと言ったんだ。
おれは、忙しいんだ。
それに眠いんだよ」
たぬきの子は、すぐに、元気よく、答えました。
「ぼくは、小太鼓を叩くんだ。
(小太鼓:a small drum) それで、チェロに合わせてもらって来い、と言われたんだ」
「どこにも小太鼓がないじゃないか」
「そら、これ」
たぬきの子は、背中から、短い棒を二本出しました。
「それで、どうするんだ?」
「それじゃ、『愉快な馬車屋(The Merry Master of a Coach Station)』を弾いてください」
「なんだ?
愉快な馬車屋って、ジャズか?」
(ジャズ:jazz) 「ああ、これが楽譜だよ」
たぬきの子は、背中から、また、一枚の楽譜をとり出しました。
ゴーシュは、手にとって、笑い出しました。
「ふう、変な曲だなあ。
よし、さあ弾くぞ。
おまえは、小太鼓を叩くのか?」
ゴーシュは、たぬきの子が、どうするのか、と思って、ちらちら、そっちを見ながら、弾きはじめました。
すると、たぬきの子は、棒をもって、チェロの下の方を、ぽんぽん叩きはじめました。
それが、なかなかうまいので、弾いているうちに、ゴーシュは、これは面白いぞ、と思いました。
最後まで弾いてしまうと、たぬきの子は、しばらく何か考えていました。
それから、言いました。
「ゴーシュさんは、この二番目の弦をひくとき、少し遅れるね。
なんだか、ぼく、つまずきそうになるよ」
(つまずく:to stumble) ゴーシュは、はっとしました。
(はっと する:to be startled) たしかに、その弦は、どんなに素早く弾いても、音が少し遅れるような気がしていたのでした。
「いや、そうかもしれない。
このチェロが、悪いんだよ」
とゴーシュは、かなしそうに言いました。
すると、たぬきは、気の毒そうにして、また、しばらく考えていましたが
「どこが悪いんだろうなあ。
では、もう一度、弾いてくれますか?」
と言いました。
「いいよ。弾くよ」ゴーシュは、はじめました。
たぬきの子は、さっきのように、とんとん叩きながら、時々、頭をまげて、チェロに耳をつけました。
そして、最後まで来ると今夜も、また東が、すこし明るくなっていました。
「ああ、夜が明けた。どうもありがとう」
たぬきの子は、あわてて、楽譜や棒を背中に背負って、ゴムで、ぱちんと、とめました。
(とめる:to fasten) それから、おじぎを、二三度すると急いで外へ出て行ってしまいました。
ゴーシュは、ゆうべ、こわれた窓から入ってくる空気を、しばらく吸っていました。
が、町へ出て行くまで眠って、元気をとり戻そうと、急いで、横になりました。
(5)
The fourth night as he was practicing, a mother mouse came in with her baby, asking him to heal her sick son. When Gauche told her that he wasn't a doctor, she replied that the sound of his music had already healed a number of animals. Gauche put the sick little mouse into a hole of his cello and played a rhapsody. When Gauche finished, the little mouse became fine and was able to run around. The mother mouse cried and thanked Gauche, and left.
次の晩も、ゴーシュは夜の間ずっとチェロを弾いていました。
明け方近くになり、つかれて楽譜をもったまま、うとうとしていますと、また誰かが戸をこつこつと叩きます。
(うとうと する:to doze off; to nod off) ゴーシュが「おはいり」と言うと、一匹の野ねずみが入って来ました。
(おはいり:Come in) (野ねずみ:a field mouse) そして、小さな子供をつれて、ちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。
その野ねずみの子供は、とても小さくて、消しゴムくらいしかないので、ゴーシュは笑ってしまいました。
(消しゴム:an eraser; a rubber)
野ねずみは、ゴーシュの前まで来ると、栗の実を一粒置いて、おじぎをしました。
(栗:chestnut) 「先生、この子が病気で死にそうです。
先生、何とか、治してやってください」
(治す:to cure)
「おれは医者じゃないぞ」
ゴーシュは、すこし怒って言いました。
すると野ねずみのお母さんは、しばらく黙っていましたが、また、言いました。
「先生、それは嘘です、
先生は毎日、みんなの病気を治しています」
「何を言っているのか、わからんよ」
「だって先生、
先生は、うさぎのおばあさんも、治しました。
たぬきのお父さんも、治しました。
あんな意地悪なふくろうまで、治したじゃないですか。
(ふくろう:an owl) それなのに、この子だけ、助けてくれないなんて、ひどいです」
「おいおい、それは何かの間違いだよ。
おれは、ふくろうの病気を治したことはないからな。
まあ、たぬきの子は、ゆうべ来て、楽器の練習をして行ったがね」
ゴーシュは、笑いながら言いました。
すると野ねずみのお母さんは、泣きだしてしまいました。
「ああ、この子は、どうせ病気になるなら、もっと早くなればよかった。
さっきまで、あれほど、ごうごうと弾いていらっしゃったのに、……。
病気になると、すぐに止めてしまって、もう、いくら、お願いしても弾いてくださらないなんて」
ゴーシュは、びっくりして叫びました。
「何だと?
ぼくがチェロを弾けば、ふくろうや、うさぎの病気がなおると。
(なおる(治る):to get well; to recover) どういうわけだ。それは」
野ねずみは、目を片手でこすりながら言いました。
(こする:to rub) 「はい。
このあたりのものは、病気になると、みんな先生のおうちの床下に入って、治すのです」
「すると治るのか?」
「はい。
大変いい気持ちになって、すぐ治る方もいれば、うちへ帰ってから治る方もいます」
「ああそうか。
おれのチェロの音が、体に響いて、おまえたちの病気が治るというのか。
(響く:to sound; to echo) よし。わかったよ。やってやろう」
ゴーシュは、チェロを持つと、野ねずみの子供をつまんで、チェロの孔から中へ入れてしまいました。
(孔:f-hole)
「わたしも一緒について行きます。
どこの病院でも、そうですから」
「おまえも、入るのか」
ゴーシュは、お母さんの野ねずみをチェロの孔から入れようとしました。
が、顔が半分しか入りません。
野ねずみは、ばたばたしながら、中の子供に叫びました。
「おまえ、大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
子供のねずみは、小さな声で、チェロの中から返事をしました。
ゴーシュは、お母さんのねずみを、下におろしてから、チェロを、ごうごう、があがあ、弾きました。
お母さんのねずみは、心配そうに、その音を聞いていましたが、とうとう、我慢できなくなったようで
「もう十分です。
どうか出してやってください」
と言いました。
「なあんだ、これでいいのか」
ゴーシュがチェロを傾けて待っていると、まもなく、子供のねずみが出てきました。
見ると、目をつぶって、ぶるぶるぶるぶる、ふるえていました。
(つぶる:to close)
「どうだったの? 気分は、いいの?」
子供のねずみは返事をしません。
目をつぶったまま、ふるえていました。
が、急に、起きあがって走りだしました。
「ああ、よくなったんだ。
ありがとうございます。ありがとうございます」
お母さんのねずみも、一緒に走っていましたが、まもなく、ゴーシュの前に来て、何度も、おじぎをしながら
「ありがとうございます、ありがとうございます」
と十回ぐらい言いました。
ゴーシュは、何か、かわいそうになって
「おい、おまえたちは、パンは、食べるのか?」
と、ききました。
すると野ねずみは、びっくりしたように言いました。
「いえ、もう、パンというものは、とても美味しいものだそうですが、私たちは、決して、おうちの戸棚などに入って、それを取ったりなどしません。
それに、……」
「いや、そのことではないんだ。
ただ、食べるのかと、きいたんだ。
では食べるんだな。ちょっと待てよ。
その体の悪い子供へ、やるからな」
ゴーシュはチェロを床へ置いて、戸棚のパンをちぎって、野ねずみの前へ置きました。
野ねずみは、泣いたり、笑ったり、おじぎをしたりしてから、大事そうに、それをくわえて、子供と一緒に外へ出て行きました。
「あああ。
ねずみと話をするのも、なかなか疲れるなあ」
ゴーシュは、横になると、すぐ、ぐうぐう、眠ってしまいました。
(6)
The Sixth Symphony concert was a great success. In the dressing room, the conductor asked a surprised Gauche to play an encore. Upon hearing the applauding audience, Gauche thought he was being made a fool of and again played "Tiger Hunt in India". Afterward, everybody in the dressing room congratulated him.
それから、六日目の晩でした。
楽団の人たちは、町のホールの裏にある、ひかえ室へ、みんな自分の楽器をもって、舞台から帰って来ました。
(ホール:a hall) (ひかえ室:green room) (舞台:a stage) 交響曲第六番を上手く演奏し終えたのです。
ホールでは、拍手の音が、まだ嵐のように鳴っています。
(拍手:hand clapping)
指揮者は、うれしそうに、みんなの間を歩きまわっていました。
みんなは、たばこを吸ったり、楽器をケースへ入れたりしました。
ホールは、まだ、拍手が鳴っています。
いや、拍手の音は、段々大きくなって行きます。
大きな白いリボンを胸につけた司会者がはいって来ました。
(司会者:a master of ceremonies) 「アンコールに、何か、短いものを、お願いできませんか」
(アンコール:an encore) すると、指揮者が怒ったように答えました。
「それは、いけません。
こういう大きな曲のあとでは、何をやっても、上手く行かないんです」
「では、代わりに、ちょっと挨拶してください」
「だめだ。
おい、ゴーシュ君、何か弾いてやってくれ」
「わたしが、ですか?」ゴーシュは、驚きました。
「君だ、君だ」バイオリンの人が、いきなり顔をあげて、言いました。
「さあ、行ってくれ」指揮者が言いました。
みんなも、チェロを無理にゴーシュに持たせて、戸をあけると、舞台へと、ゴーシュを押し出してしまいました。
ゴーシュが、チェロを持って、舞台へ出ると、みんなの拍手は、もっと大きくなりました。
わあと叫んだ人もいました。
「どこまで、人を馬鹿にするんだ。
よし見ていろ。
インドの虎狩りをひいてやるから」
ゴーシュは、すっかり落ちついて、舞台のまん中へ出ました。
それから、あの猫が来たときのように、まるで怒った象のような勢いで、虎狩りを弾きました。
ところが、客席の人たちは、静かに、一生懸命、聞いています。
ゴーシュは、どんどん弾きました。
猫が、顔から、ぱちぱち火花を出したところも、過ぎました。
戸へ体を何度もぶつけたところも過ぎました。
曲が終わると、ゴーシュは、もう、みんなの方など見ようともせず、ちょうど、あの時の猫のように、すばやくチェロをもって、楽屋へ逃げ込みました。
(楽屋:green room)
すると楽屋では、指揮者や仲間が、みんな、何の話もせずに、静かに座っているのです。
ゴーシュは、みんなの間をさっさと歩いて行って、向こうの椅子へ、どっかりと座りました。
すると、みんなが一度に振り向いて、ゴーシュを見ました。
みんな、まじめな顔をしていて、べつに笑っているようでもありませんでした。
「今夜は変な晩だなあ」ゴーシュは思いました。
ところが、指揮者が立って言いました。
「ゴーシュ君、よかったぞ。
あんな曲だけど、ここでは、みんな本気で聞いてたぞ。
一週間か十日の間に、ずいぶん上手になったな。
十日前とくらべたら、まるで赤ん坊と兵隊だ」
仲間も、みんな立ち上がって、「よかったぜ」とゴーシュに言いました。
「いや、体が丈夫だから、こんなこともできるんだよ。
普通の人なら、死んでしまうからな」
指揮者が向こうで言っていました。
(7)
When he came back to his house, he opened the window where the cuckoo had hit its head and felt sorry for his actions.
その晩遅く、ゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そして、また、水をがぶがぶ飲みました。
(がぶがぶ飲む:to gulp) それから窓をあけて、いつか、かっこうの飛んで行った遠くの空を眺めながら言いました。
「ああ、かっこう。
あのときは、すまなかった。
おれは怒ったんじゃなかったんだ」
(すまない:to be sorry)
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