|
ピアノ
震災の後の話。 (震災:an earthquake disaster ここでは関東大震災(The Great Kanto earthquake、1923年9月1日)のこと) ある壊れた家の中に、ピアノがあった。 誰もいないのに、そのピアノから音がした。 ある雨のふる秋の日のことだった。 わたしは、ある人を訪ねるために、横浜の山手を歩いていた。 (山手:横浜の地名) このあたりは、あの地震があった当時と、ほとんど変わっていなかった。 (地震:earthquake) もし変わっているとすれば、壊れた家の屋根や壁の間から、草が生えていることだけだった。 ふと見ると、ある家の中に、ピアノがあった。 その家も、壁は倒れ、屋根も壊れていた。 ピアノは、雨の中で濡れていた。 (濡れる:to get wet) ふたを開けたままだった。 雨で濡れた鍵盤が、光っていた。 (鍵盤:a keyboard) まわりには、たくさんの楽譜が落ちていた。 (楽譜:a sheet of music) その日の用事は、少し難しく、時間がかかった。 その人の家を出たのは、夜だった。 しかも、また、もう一度、会いに行かなければならなかった。 私がその人の家を出た時には、もう、雨は上がっていた。 ((雨が)上がる:to stop) 月の光で、道は明るかった。 わたしは駅へと急いで歩いた。 すると、突然、ピアノの音が聞こえた。 誰かが、ピアノを弾いている、というような音ではなかった。 ただ、ピアノの音が一つ鳴っただけだった。 (鳴る:to sound) わたしは、立ち止まって、あたりを見まわした。 そこには、昼に見た、壊れた家の中のピアノがあった。 人は、誰もいなかった。 音がしたのは、一度だけだったが、間違いなくピアノの音だった。 わたしは、少し無気味になり、駅に向かって歩きだそうとした。 (無気味:weird, eerie) その時、また、ピアノの音が聞こえた。 わたしは、もう振りかえらずに、さっさと、歩いて行った。 どうして、人がいないのに、ピアノの音がしたのだろうか…… わたしは考えた。 きっと、小さな動物がピアノの上を歩いたのだろう…… もしかすると、猫でも、いたのかもしれない…… そう考えても、何か不思議な気持ちが、わたしの中に残った。 *** 五日ばかりたった後、わたしは同じ用事で、同じ場所を歩いていた。 ピアノは、やはり、壊れた家の中に置いてあった。 まわりには、楽譜がたくさん落ちていた。 前と何も変わっていなかった。 ただ、今日は、壊れた家もピアノも、秋の明るい日の光で輝いていた。 わたしは、楽譜を踏まないように、ピアノの前へ歩いて行った。 ピアノは、近くで見てみると、かなり汚れていた。 わたしは、少し残念な気持ちになった。 「これでも、音が鳴るのだろうか」 わたしは、思った。 そう思った時、また、ピアノから、小さな音がした。 しかし、わたしは驚かなかった。 わたしは、わずかに微笑んでいた。 (微笑む:to smile) そのピアノの、白い鍵盤は、今も、日の光の中で輝いている。 が、そこには、落ちてきた栗が一つ、転がっていた。 (栗:a chestnut) わたしは、外に出ると、もう一度、この壊れた家をながめた。 大きな栗の木が、斜めになって、ピアノを覆っていたのだ。 (覆う:to cover) しかし、わたしは、その栗の木のことを、気にしていなかった。 わたしは、ただ、ピアノをじっと見ていた。 このピアノは、あの去年の地震からずっと、その音を守ってきたのだ。 誰も知らない、その音を。
|
|